2020年12月5日 合同短編上演会2020 京都公演

 

 

 

公募コメンターの方のコメント

2020年12月5日 合同短編上演会2020 京都公演

 

 

公募コメンターの方のコメント

2020年12月5日 合同短編上演会2020 京都公演

 

ケチャさんコメント

 

「星の王子様」

初めのイトヲさんのセリフ聞き覚えがあるセリフでした。 18歳の回天特攻隊の遺書の文言でした。私も以前にこの遺書に出会い、印象に残っているのですぐに分かりました。母を思う青年の遺書。そこからの劇のスタートだったので、私のイメージが引き立てられました。イトヲさんもずっと後ろを向いたままで演技をしていらして、なんとも明瞭に見えてこないと言いますか、そのような印象を受けました。私は星の王子様という物語を読んでませんでしたので、物語の概要を観劇中に把握することもしていたのですが、役者さんのセリフセリフがとても印象に残りました。輪郭の話とか、真実とかほんとのことはどこにあるんだとか。そしてその輪郭の話が、後ろを向いて演技していらっしゃったイトヲさんと自分の中でつながって面白かったです。18日にyoutubeで配信されるということで、星の王子様を読みましたのでもう一度見てみたいと思います。 照明は眩しいほどの目潰しが印象的でした。カメラ越しで表現できるのか。できないならもったいないくらい好きでした。

 

「タクシーを待ちながら」

この作品の印象は、もちろん物語なんですけどすごく感情を表している作品なんだと思いました。舞台のセットなんですかね、紙で囲っていく演出もあれは感情というか孤独感というか分離というか、そういった概念を具現化したものでとても面白かったです。日常にあるなんといいますか、個人として確立しているという確信がなくなるシーンというか、そういうシーン(本人確認とか、自販機に無視されるとか)は誰にでもあるようなそういう要素をくすぐるようで私の記憶の印象の中から動かされました。それは役者さんの演技も痛いくらいの他人の声のSEも寂しいサスも壁みたいな紙のサークルも一体感を持って私に伝わってきました。 私はやはり生の演劇というのが好きです。目の前の役者さんからエネルギーをいただきながら見る芸術というのは素晴らしいと思います。なので今回、観劇させていただけたことを感謝しており心から楽しませていただきました。 ありがとうございました

 

 

2020年11月29日 合同短編上演会2020 大阪公演

『タクシーを待ちながら』

 

ミネナオカさん コメント

現代版『ゴドーを待ちながら』のような本作。

この脚本の行間を丁寧に読み取りながら、感覚を研ぎ澄ませて浸るように鑑賞すると、
独特の世界観に引き込まれていきました。
それは、言葉にならない言葉を自分の中にたくさん持っている人ほど
引き込まれる世界観なのかもしれない。
生きる上で、あらゆるもどかしさを抱えている人にとっては共感し、
癒しに繋がる作品であると感じました。

表立った「言葉」で語られず、処理されることなく、自分の中に積み重なった霧のようなものたちが、
「未処理のままそこにあっていいんだよ」と優しく癒されていくように思えて
もっとこの世界を見ていたい、触れていたい、と感じました。
なので、再演をされる場合はこの倍の長さでの上演を希望します()
わかりやすい展開はなくとも、ずっと見続けていられる上質な絵画のような演出と
どんな台詞よりも語っている、説得力のある目の演技にうっとりしながら
心地よい時間に永遠に浸っていたいです。

イーアイオーの作品は、今までいくつも観させていただきましたが
今作が間違いなく最高傑作であるように感じました。
感覚的な世界観をチームで形にするということは、大変な作業であると思います。
「説明できない」ものを孕んだ脚本には、読み手の感性が必要であるし
感性を共有し合うためには時間が必要である。
その作業が煩わしいからといって、わかりやすい説明を求めると、
作者が大切に扱いたい「説明できない」大元の部分が失われてしまう。
そういった困難を乗り越えて、コロナ禍でのバタバタも乗り越えて
脚本家から演出家へ、演出家から役者へと上手くバトンを渡しきることができたのだな、と
制作の背景を想像するだけで涙が溢れました。
これからも情報社会に屈することなく、置いてけぼりの「わかりにくさ」に光を当てていって欲しいなと思います。

 

 

 

2019年12月18日上演 合同短編上演会 ショートショート 

 

ミネナオカさん コメント

 全然系統の違う人たちが集まっているのに、不協和音が生まれないのは

会場となった喫茶フィガロの懐の広さゆえなのか。

昭和の感じと宇宙空間を掛け合わせたような不思議な雰囲気の中、

懐かしいおもちゃ箱をのぞき込んでいるような気分になった。

「タクシーを待ちながら」は、「ゴドーを待ちながら」のオマージュとして書かれたのだろうと思っていたら なんと作者は「ゴドーを待ちながら」観る前にこの作品を書いたのだそうで。

「待つ」という行為には、まだ見ぬ未来に対する人々の不安や葛藤や憂いが漂うものなのだなぁ。

電子化が進んで「待つ」という機会そのものが失われつつある時代に

懐かしいウェットな人間の可笑しみを感じることが出来た。再演が楽しみ。

 

 

 

 

 

 

『役者放棄計画~別れの曲  / 役者暴走計画~別れの曲』レポート

 

英 衿子さん(ハナさくラボ) 稽古場レポート

 5/13、日曜日。けっこうな雨。出町柳。イーアイオーさんのお稽古に、お邪魔しました。

  作演出のYumiさんとは、とくにここ1年ほど、私の行くところ行くところで顔を合わせていました。KAIKAで、芸術創造館で、コモンカフェで、そしてウイングフィールドのディレクターズワークショップでは同じチームで一つの演劇作品を見届けるという。こんなに同じ場所に現れるというのは、その時持っている課題というものが、きっと自分と似ているのだろうと思います。似ている人というのは自分を写す鏡でもあって、Yumiさんの創作にかける真面目さを見るにつけ、自分も頑張らなくてはと心奮い立たせておりました。

さて、Yumiさんは熱意とは裏腹、いつもお会いするたびに「人がいない」「企画が流れていつになるかわからない」などの災難エピソードの数々を淡々とした口調でおぼやきになります。Yumiさん渾身の企画を見ることができるのはいつの日か…と思っていましたところ、ついに!この6月にようやく企画実現、そして私に通し稽古の見学をさせていただけるとのこと。

 

最近は少しお休みしてしまっていますが、昨年、「自分の見た作品を流してしまわず感じたことを言語化しておくべし」と殊勝なことを考えた私は、人脈少ないツイッターにて観劇の感想をつぶやいておりました。まあこれは自分のメモのためだし、人に見せるためのものでもないし、と、細々と続けていたところ。それをYumiさんが見てくださっていたのです。しっかり感想を書いているから、イーアイオー作品についても、レポートのようなものを書いてくれたらとのお申し出。そんなふうに見てくださっていたとは!驚き、少しお恥ずかしくもあり、でもじわじわと嬉しさ込み上げる出来事。光栄です。本番三週間前の通し稽古を、早速拝見でございます。

 

作品は、短編2本だて。1人パフォーマンスと、2人パフォーマンス。Yumiさんのこだわりと熱意とリアルな嘆きぼやきが不思議に詰まっています。申し遅れましたが、これ「演劇」ではありません。「演劇とダンスと即興パフォーマンスと漫談を少しずつ取ってきた現代アート」です。「自分そんなに演劇を深々とやってないし、なんなら素人だし」と自認していた私も「ああ、私、演劇という霞で目が曇ってる」と思ってしまいました。なんでも、「作品」にしようという、心意気。それは、「“演劇”という誰かがひいた線路なんてたどってやらんぞてやんでえ」ぐらいのものがないと、出せません。(あんなにワークショップを果敢に受けているYumiさんが、そこを目指さずにすんでいるというのはある意味すごいなと思います。私は抜けようとするのがもう大変だ)

 

「私たちは経験は無いが、今の自分たちだからこそ表現できるものを出そうとしている」と話すYumiさん。それが自由というもので、勇気ある純粋。後半の、若い演者さんの作る即興芝居に、演劇という曇った眼の私は感銘を受けました。ああ、これ演劇やってるとできないパフォーマンスやん。当たり前だけど、演劇人って「演劇」しようとしてしまうから。演劇人が四苦八苦して「演劇」から自由になろうとしている壁をいとも簡単に超えていて。表現って、引き出しを増やそうと追求すればするほどがんじがらめになる、自由に逆行してしまう罠がある。それも演劇に慣れない人からは格好良くて素敵なものかもしれないけど。やっぱり人は基本的にはより「自由」になりたくて、より「自分」になりたくて、表現するのではないかな。それが、見ていて面白いものにもなるのではないかな。そんなことを考えました。

 

 

 

『役者放棄計画~別れの曲  / 役者暴走計画~別れの曲』上演レポート

 

英 衿子さん(ハナさくラボ) レポート

  演劇においての演出ってなんだろう…というのは永遠の課題だと思います。(私は演出の役割は「見る」ことだと思っているのですが、少し漠然としていますし、ここではそう述べるに留めます)。人によってこの答えは違うと思いますが、演劇をやったことがある人ならば、「演出は必須!」と答えることでは一致するでしょう。
しかし、では、演出がいなければ(もしくは“演出”的なことをなにもしなければ)劇は劇にならないのでしょうか。役者が舞台にいて、言葉を発し行動するだけでそれは劇ではないのか…?このたびのイーアイオーさんの作品で、そんなことを考えました。

前半は、自作を演じてくれる役者がいないので一人で芝居・ダンスをする劇作者。後半は、台本があるだけで演出家のいない状態の2人の役者の即興のエスカレートぶり。前半は、たしかに主人公は演出家なのだけど、その独り舞台に外から演出をつけているわけではない。とすれば2作とも“演出家”は不在で進む舞台でした。

芸術に完成はないとよく言われますが、舞台は、本番に上がることが一応の“完成”です。そこには見ているお客さんがいる。この舞台を見るお客さんは、見ていると自然に「これは、どこまで行くのか…どう終わるのか…」を、舞台上の出演者と共有するようになってゆきます。台本が完成されているお芝居には「最後にこうなるのを見せたい」という作り手の意識があります。が、それをリアルタイムで微妙〜にまさぐりながら、大胆かつおずおずと進んで行く、そんな舞台。

実は、それこそが演出なんだなと、腑に落ちます。「落とし所を見つける、そして決める」こと。切り取られた日常や人の営みに始まりも終わりもない。意味もない(もしくは無数にある)。それを「落とし所」なる人為的なものを付け加えるのが演出。この舞台を見るお客さんは「これ、どうするのかな」と考えてしまうこと、そのものが演出体験なのです。が、それも途中で投げ出そう!という気にさせてしまうのは後半の役者の暴走。あーもう、なんか面白いしよく分からないし可愛いからいいや!演出放棄すらも体験してしまう人、多かったのではと思います。
これは劇なのか、劇ではないのか、その問いそのものも放棄したい、
そんな稀有な体験ができる舞台だったと思います。

 

 

 

 

 

『役者放棄計画~別れの曲  / 役者暴走計画~別れの曲』上演レポート

 

ミネナオカさんレポート

  舞台とは、演劇とは、本来そこに参加したすべての人が一体感を持って本番に挑むべきものである。

 作品の世界観を共有し、同じ船に乗ったつもりで本番に向け共に進んでいく。そのためには、計画的にスケジュールを合わせて稽古をする必要があるし、セリフや立ち振る舞い等を綿密に組み立てることが必須となる。息を合わせなければ、複数人で「作品」を作ることはできない。よって舞台を行うには、複数の人を、本番を行える状態になるまで一定期間確保できるということが大前提としてある。

   では、人を集めることができない人間は舞台をすることができないのか。もしも人を確保することができなかったら、集まったとしても稽古時間を裂いてもらうことができなかったとしたら、今ここにある舞台のアイデアは手放してしまうしかないのか。前提を覆してでも舞台をやりたい。公演を打ちたい。たとえ役者を集められなかったとしても。そんな作者の熱い思いをもって実現したのが「役者放棄計画/役者暴走計画」という作品である。

 

 前半「役者放棄計画」は、本番その日になるまで役者が集まるかどうかわからないままに上演日を迎えるという恐ろしい内容で、結果この日は役者が一人も集まらなかった。「役者集められませんでした!でもやります!」舞台上でそう語る作者の姿は生々しく、見ている者を不安にさせる。役者がいないので作者自身が一人芝居のような形でセリフを語り、ダンスを踊り、言葉にならない言葉を全身で表現しながら舞台の上に存在している。彼女自身の肉体からは隠しようのない素人感が表出され、それがさらにこの状況のリアルを生む。安心のないままに存在するその姿は、彼女の生き様そのものであるようにも感じられて胸が締め付けられるような思いになる。

 

 そして後半「役者暴走計画」になると、舞台上には作者とは別の2人の役者が登場し「やっと集まった役者。ところがもっと面白くしようとして役者が暴走をし始める」という体で役者が完全即興の脈絡のない展開を繰り広げていく。「閃き」だけにここまで依存してしまって大丈夫なのだろうかとこちらが心配になるほど、次々に飛び出すセリフは支離滅裂。もともとあった脚本はまるでなかったことにされてしまって、いくらなんでも役者の暴走がすぎる。これ以上の自虐があるだろうか。もはや作者は「作品」を作る気があるのかどうかすら疑わしい。それはただ、自ら破壊を辿る作業のようにも見える。

 

  前編後編を通し、観客は、舞台とは本来こうあるべきであるという今まで信じていたものが覆されてどうしたらいいのかわからない気持ちになる。果たしてこれは「作品」と呼べるのか。こんな舞台が存在していいのか。今自分たちは一体何を見せられているのか。

 

 この舞台で多くの観客が与えられたものは、「不確かさの中に何を見ようとするのかという自分自身への問い」であったと思う。未熟で、未完成で、不確かなものを目の当たりにしたとき人はそれをどのように受け止めるのか。「あなた自身はどうしますか?」その問いを与えられた観客は、観客というよりもむしろ当事者の立場になって自らアクションを起こすアクターへと転換させられる。この不確かな世の中、社会の中にそれぞれのストーリーを求められ、あぶり出されていくような不思議な感覚。これがイーアイオーの本当の狙いなのか、目の前の舞台でリアルに生み出されていく感情や言動に釘付けになっているうちに、観客はただの観客ではいられなくなる。

 

 私はこの公演を2日連続で鑑賞し、初日は自分の中に沸き上がった感情をうまく説明することができず混乱したままに終わったが、2日目の前半のラストには涙を流し、後半のラストには手を叩いて大笑いしていた。作品の完成度とは関係なく、何でもありのこの公演は面白かった。何よりも人間が面白かった。舞台の上に立つ人間を、これほど面白いと感じたのはそうそうないことだ。

 

 そもそも彼女たちは舞台の前提を覆すところからはじまり、強行突破でこの日を迎えている。失うものは何もない。カーテンコールで彼女たちを目にしたとき、その佇まいからは、絶望から光る希望のようなものが感じられた。そこには「ただ、舞台をやりたかった」という純粋な思いが強烈に存在し、同時に「私はただ、ここに生きていたいのだ。不器用ながらも存在したいのだ」という無骨なメッセージが溢れ出ていた。不器用な人間が不器用なままに、これ以上ないほど潔く舞台に立っていた。その姿は私にとって希望だった。

 

 舞台とは本来、演劇とは本来そもそも皆が信じている「本来」とは一体何か。こんがらがった頭で本公演を眺めたとき、これはむしろ「舞台作品」ではなく、「舞台」という場所で「演劇」というモチーフを使って作られた現代アートであるようにも思えてくる。アートとはまさに人間の生命の爆発であり、何らかの形で人々に希望を与えるものだ。形式がどうであれ、受け手の心を揺さぶった方の勝ち。そう思うと、舞台や演劇に慣れ親しんだ者が、それらの「本来の形」にこだわっていることがむしろ窮屈で展望のない視点であるようにも思える。イーアイオーが今後どのように舞台畑を引っ掻き回し、盛り上げていくのかとても楽しみだ。

 

 

 

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